2011年1月19日水曜日

次はたちあがれ!

このスィートアリッサムは1年草と言われてますがあの酷暑の夏も乗り越え、
この厳しい寒さも今乗り越えそうな気配です。
小さな花です。長く伸びたので先日先をカットしました。
健気に咲き続けております。

私たちも健気に民主党の敗北を期待しながら健気に国を愛して国を思って、
次期選挙には民主党を惨敗に導きましょう。
皆に言いましょう。
民主や左翼や反日政党には入れないように。
できたら「たちあがれ日本」に入れましょう!
候補者のない処は自民。
とにかく保守が政権取らないとダメです。
みんなの党辺りが伸びそうですが、リベラルに少し毛が生えた程度です。
中途半端です。
マスコミはココにエールを送りそうですが・・・騙されてはいけません。
マスコミの言うことの反対を考えるといい方向に行く。
たちあがれを応援しよう!


ミツバのクローバー
(変わった色でしょ。最近はこう言う変わった色もばローバーがあるんです)


                          大きなパンジー

ココまで書いてなんと気の早い・・・選挙のことを書いてしまった。
早くミンスを葬りたい心がそうさせた。(笑


9 件のコメント:

  1. 漂泊の旅人2011年1月19日 20:53

    寒い日が続きます。

    先日の日曜日は北は山陰で、南は高知で大雪が降ったようです。
    間に挟まれた私が住む瀬戸内は寒さは厳しかったですが幸運にも雪の被害はありませんでした。

    やがて来る春のおだやかな日が雪を溶かしてくれるでしょう。
    凍てついた政治もやがて解けて水温むことになるのでしょう。その日を楽しみに待つこととしましょう。

    返信削除
  2. 漂泊さんへ

    こんな寒い冬も最近は珍しいです。昔はこんな風に寒かったですが・・・暖冬になれた体には慣れるまで時間がかかります。
    今年から暖房は空調を辞めて温風ヒーターを使ってますが、その方が全体に暖かく過ごしやすいのが解って喜んでいます。
    花の咲き乱れる春には希望が持てるようになることを祈ります。
    景気がますます悪くなるばかりなのに増税とは…景気浮揚策を先にしなくては経済は更に悪くなりそうです。
    春まで待ちましょう。

    返信削除
  3. ベッラ・カンタービレ2011年1月20日 1:36

    真夜中ですが、父がウロウロするので起きていました。
    菅は菅原道真の子孫ではありません。
    なぜかといいますと・・・故永井智子先生(声楽家、作家永井路子さんの実母)のご主人が「菅原明朗」(楽器論の著者で
    朝比奈隆、古関ユウジ、山田一雄らを教えた)、実家は明石、
    菅原道真の正確な子孫です。

    志賀直哉、谷崎潤一郎もその系図を見ています。戦争中はともに疎開、私は直接、80歳だった永井先生からそのお話を伺っています。

    ご安心ください、ヴィットリア様のところで漂泊様がお書きになっていたので、ロゼ様ビックリなさっていた・・・。
    私、それを説明するつもりでした。
    永井先生のお話をする時に・・・。

    漂泊様のところ、花粉症がどうのっこうのって、せっかく名文をお書きになっていたのに、私がメチャクチャにしてしまった・・・ごめんなさい、漂泊様・・・ここで謝ります。
    ここでお読みになって下さいね。

    いつもごめんなさい、ロゼさま、漂泊の旅人さま・・・

    返信削除
  4. ベッラ・カンタービレ2011年1月20日 2:11

    菅原明朗
    [編集] 経歴
    兵庫県明石市大蔵町生まれ。菅原道真の菅原氏の末流。プロテスタントの幼稚園に通ったことから、明石第二尋常小学校(現在の市立人丸小学校)通学中の1908年(11歳)、洗礼を受ける(後年、カトリックに改宗)。1910年(13歳)京都二中(現在の京都府立鳥羽高等学校)に入学。その時代、陸軍軍楽隊長小畠賢八郎にホルンとソルフェージュを習う。

    1914年(17歳)上京し、1918年(21歳)まで川端画学校洋画科で藤島洋二に学ぶ。画学校時代の1915年(18歳)より作曲を発表。また、大田黒元雄・堀内敬三等の「新音楽グループ」に入り、雑誌「音楽と文学」同人となる。

    1930年(33歳)、私立「帝国音楽学校」の作曲科主任教授となり、また、箕作秋吉、清瀬保二、橋本国彦、松平頼則ら16人と「新興作曲家連盟」を、さらに、1936年、門下の深井史郎らと「楽団創生」を結成する。

    1938年、歌劇「葛飾情話」の上演後、そのときのアルト歌手、永井智子と結婚。

    ドイツ系が主流だった当時の日本の洋楽界に、彼はフランス流の新風を吹き込んだが、1930年代中ごろからはイタリア音楽に接近し、チマローザやピツェッティに傾倒した。指揮活動は、自作の指揮ばかりでなく、たとえば1942年には、アルチュール・オネゲルのオラトリオ「ダヴィデ王」を松竹交響楽団により日本初演している。戦後はグレゴリオ聖歌に影響を受けた作品が多く、またキリスト教に関連する作品も多数残した。1967年最初のイタリア旅行以降、彼はたびたびイタリアに長期滞在し、ピツェッティと親交を深めた。長寿の最期まで現役で、1988年4月2日(91歳)、「ヨハネの黙示録」に基づいたカンタータの作曲中に、急死した。

    返信削除
  5. 鉄火ベッラ嬢へ     薔薇姫より

    このコメント記事にさせていただきたいのですが・・・よろしいでしょうか?

    ・・・もう勝手に記事にしますのでよろしく。

    返信削除
  6. ベッラ・カンタービレ2011年1月20日 12:57

    「永井先生と私」
    永井先生は菅原明朗を尊敬していましたが、菅原明朗先生も永井先生を尊敬し「あなた」と敬称でお呼びになっただけでなく、お皿洗いも「そんなひまがあったら一曲でも勉強しなさい」と言うほど。
    でも若き日の永井先生は菅原先生を置いてイタリアへ勉強に。

    美声と美貌のプリマ、と絶賛された永井先生は80歳を過ぎても美しく、栗色に染めた長髪を波打たせ、青いアイシャドウをきりりと引いて、刺繍入りのブラウスに明るい色のスカート、オペラにいらっしゃる時は、ロングドレスで、背筋をピシッとのばされ、優雅でした。
    「綺麗でないとレッスンしないよ!」とお弟子に対して服装などうるさく、しつけもうるさく!「女は走ってはいけません!」(私はいつも走っていた)「ハンドバッグは足元に置きなさい」(椅子の上にのせたりしていた)、「外人に媚びるな」(私は媚びていないので誉められた)・・・などなど。

    イタリア人神父に「歎異抄」を説教し困らせていらっしゃった。

    菅原明朗先生は大変だった・・・と周りは同情・・・
    (菅原先生のお弟子がそう言っていました。)

    返信削除
  7. ベッラ・カンタービレ2011年1月20日 14:50

    追加です。

    私は永井先生の弟子ではありません。食客というか客分です。

    イタリアで、それまで自分が学んだ発声がドイツ系であったことがわかり(当時は、イタリアの発声を正しく教える先生はいなかった、すべてドイツ系だった!!)悩んでいたら、永井先生のお弟子さんが素晴らしいことを知ったのです。
    先生も私に優しくアドバイス下さって、私と話がしたいな、と思っていた、というありがたいことをおっしゃってそれでおつきあいがはじまったのです。先生が亡くなる年まで・・・。

    返信削除
  8. 永井智子女史を敬慕するベッラ鉄火嬢へ

    美しいプリマの夫君は菅原に道真の子孫。
    カンカラカンはナリスマシで一切関係ない。

    神功皇呉様の霊験あらたかな減少に感動でありますわ(薔薇姫)
    去年にそう云う番組か何かがあったようですね。カンはそう信じてもらえると嬉しいだろうが・・・そうはいくまいぞ!

    明朗夫君は大変だった…なるほどなるほど・・・そうであろう。

    返信削除
  9. ↑の訂正
    菅原に道真⇒にを削除

    霊験あらたかな減少⇒減少を現象。

    バンホーテンを買ってきたロゼ姫。

    返信削除