2013年2月18日月曜日
戦時国際法と戦争犯罪 加瀬英明
戦時国際法と戦争犯罪 加瀬英明
2013.02.18 Monday name : kajikablog
私は昭和11(1936)年の生まれで、最初に社会で仕事をしたのは大学生のときでした。まだ20歳になったかならないかくらいの頃でした。この講座では一流大学教授が講義をされていますので、みなさん堅苦しい思いをされたことでしようが、私は10代の終わりから仕事をしてきたので、堅苦しい人生を送ってこなかったという思いがありません。そこで、ざっくばらんなお話をしながら、今日のテーマを取り上げていきたいと思います。
私は慶応大学の学生のときから物書きでした。当時、映画会社「東宝」とシナリオのお助いをする契約を結びました。当時の大学卒の初任給が9000円くらいでしたが、毎月20000円をいただいて、高峰秀子さんの御主人の映画監督の松山善三さんとか、脚本家の井出敏郎さんなどの仕事を手伝いました。一番始めにかかわった仕事が、雑文書きと活動屋(当時は映画のことを活動写真と呼びました)です。
月刊誌《文芸春秋》に、評論家という肩書きをいただいて書くようになったのが28歳のときです。30歳のときに、東京放送(TBS)が出資して百科事典「エンサイクロペディア・ブリタニカ(Encyclopedia Britannica)」というと大英百科事典の最初の外国語版をつくるということで、私は初代編集長を勤めました。
いろいろなことをしました。私は日本の外交にも深く関わってきました。41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、総理から第1回福田・カーター(米大統領)会談のお膳立てを手伝ってほしいと言われて、首相特別顧問として福田首相一行がワシントンにはいる前の日に現地入りして、ホワイトハウス、国務省、国防省、議会などをまわり、日米首脳会談の詰めを手伝いました。
最後に同じ肩書きをいただいたのは中曽根内閣のときで、ロン・ヤス会談と呼ばれた中曽根総理と、ロナルド・レーガン米大統領との交渉の裏方のお手伝いをしました。
■1 戦艦ミズーリ
今日は、なにからお話しようかなと思っていましたが、このテキストの表紙の写真からお話をはじめようかと思います。
この写真は、日本国にとって屈辱の日である昭和20(1945)年9月2日に、東京湾に浮かんだ敵艦ミズーリ(Missouri)号の艦上で、我が家族にとってこれほどの屈辱の日はありませんが、日本が降伏文書に調印したときのものです。
前列にいるのが、日本政府の全権の重光葵(しげみつまもる)外相と、大本営代表の梅津美治郎(うめづよしじろう)陸軍大将の2人です。正面には、敵将マッカーサーが立っています。この写真の2列目の右から2番目に立っているのが、私の父親です。当時42歳でした。
米国によって戦争を強いられて、日本が追いつめられて存亡を賭けて、やむなく立ち上がったのは、みなさんもご承知の通り、昭和16(1941)年12月8日のことでした。私はこの日が我が民族の誇るべき日であると、確信しています。開戦時、私の父は、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣の秘書官、および日米交渉を主管して交渉の指揮をとった北米課長と、イギリス帝国課長を兼任していました。
ミズーリ艦上の降伏調印式のときも重光全権の随行員としてお供をしました。重光外相がマッカーサーの前に進み出て、降伏文書に万涙をのんで署名したとき、わきに立っていたのが私の父です。
この日の午前4時半、降伏文書に調印するために随員を含めて外務省、陸海軍の11名が、暗いなかを首相官邸に集まりました。そのときの首相が東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)です。東久邇宮首相の短い挨拶があり、全員で水盃で乾杯をしたうえで、5時半に乗用車に分乗し、一面焼け野原だった東京を抜け、同じく見渡すかぎり焼け野原となっていた横浜にはいり、焼け野原の中にポツンと残っていた横浜県庁の応接室で、しばし休憩をとりました。そして、横浜の埠頭まで移動して、そこで待機していた米軍の駆逐艦に移乗してミズーリの舷側まで行き、ミズーリのタラップをあがって、式場に着いています。
みなさんもミズーリ艦上の、あの今見ても屈辱的な降伏調印式の写真や映像を御覧になった方が多いだろうと思います。重光全権、それから私の父と2人の外務省の随員がいます。外務省員は、モーニングにシルクハットをかぶっています。最高の礼装です。
ただ、たったひとり、大田三郎という随員が、戦災ですべてを焼き出されてしまったもので、モーニングが間に合わずに、仕方なく真っ白な背広の上下を着ています。私の父も戦災で家を焼かれていたのですが、モーニングは残りましたものの、シルクハットを焼かれてしまったので、人から借りたのですが、ブカブカで、艦上で風が強く飛びそうになって、しばしば片手で押さえています。
一方、わが国の陸海軍軍人は、略装の軍服です。軍人が正式の服装をするときには、いまの警察官のような、固いツバがついた帽子をかぶります。ところが当日の軍人たちは、戦闘帽です。海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服です。
どうして外務省の一行が正装のモーニングを着ているのに、軍人は略装だったのでしょうか。みなさんの中で答えられる方はおいででしようか。いままでこの写真や映像を見て、不思議に思われた方は、おいででしようか。おいでにならないのかもしれません。
どうしてかというと、重光全権ら外務省の一行は、畏れ多いことですが、天皇陛下を代表する立場でした。外務省の一行は敵に対してではなく、陛下に対して敬意を表して礼服を着たのでした。けれど軍人は、軍を代表していました。仇敵に敬意を払いたくなかったので、略服を着ていたわけです。
ミズーリ艦上に立った重光外相は、この13年前に中国公使(こうし)として、上海に赴任していました。当時の日本は中国に「大使(たいし)」は送っていません。世界の主要国から日本には大使が派遣されてきていましたが、日本から「大使」を送っていたのは、英国、ドイツ、イタリア、米国、ソ連などの大国に対してだけでした。二流国だった中国には「公使」です。
その上海の日に、野外で天皇誕生日の祝賀式典がありました。天皇誕生日は、昭和時代ですから5月です。この式典会場で、国歌君が代が吹奏されたので、重光公使らが壇上で立っていたところ、不逞朝鮮人が爆弾を投げました。
壇上にいた陸海軍司令官と、重光公使全員が、爆弾が足下に転がってきたのがわかりました。けれど当時の日本人ですから、国歌の吹奏中に、まさかうろたえてこれを避けるわけにいきません。直立不動の姿勢のままでいました。爆弾が爆発をして、重光公使は片足を失いました。ミズーリ艦上に立ったときの重光全権は、片足が義足です。
私は重光さんに晩年まで可愛がられました。よく存じ上げて、いろいろ話を伺う機会がありました。重光さんは私の父とミズーリの艦上に立ったときのことを、次のように述懐されました。
「あの日、敗れたという屈辱感よりも、日本が今度の戦争で多くの犠牲を払ってアジアを数世紀にわたった白人・西洋の植民地から解放したという高い誇りを胸に抱きながら、ミズーリ号の甲板を踏んだ。」
■2 人種の平等を実現した日本
日本は敗れました。しかし、その結果、アジアの諸民族が解放されました。その高波が、アフリカ大陸も洗い、次々と新しい独立国が誕生しました。数百年にもわたって続いた西洋の苛酷だった植民地支配を、日本が終止符を打ったのです。
いまから70年前に、東京で「大東亜会議(だいとうあかいぎ)」という有色人種はじめての世界サミットが催されました。日本からは、東条英機首相が出席し、満州国からは張景恵(ちょうけいけい)総理、中国は南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)院長、タイ(タイは戦争前から独立国でしたが)のワンワイタヤーコーン親王殿下、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマはバー・モウ総理大臣、チャンドラボーズ・インド仮政府首席などが一同に会しました。そして、人種平等の世界をつくることを高らかに宣言しました。
先の大戦は、「軍国主義国日本と、民主主義国だった米国が戦って、米国がファシスト日本を打倒した」という話をお聞きになってきた方も、きっとおいでのことと思います。そんなことは、まったくの嘘です。
私達が戦った米国は、同じ国民である黒人を、法的に差別していました。米国の南部諸州では黒人は一切投票することができませんでした。私は1950年代末に米国に留学をしましたが、当時の米国では、黒人と白人は、公衆便所から食堂、列車やバスの座席や水飲み場まで、あらゆるところに差別がありました。ニューヨークやワシントンでは、1960年代にはいっても、白人が使うレストランに黒人が入るということはありえないことでした。
ところが、日本がアジアを解放した結果、アフリカでも次々と独立国が生れました。そうなるとアフリカの外交官が、ワシントンやニューヨークの国連本部にやってきましたが、差別するわけにゆかない。こうなると当然のことですが、米国内の黒人も黙ってはいません。
1950年代末に、米国内でマーチン・ルーサー・キング牧師が率いる公民権運動がはじまりました。これが60年代になって実を結びます。それまではアメリカの多くの州で、白人と黒人が性的な関係を結ぶことが犯罪とされていました。まして結婚などは、認められませんでした。最後の3つの州で、白人と黒人が性的な関係を持つ、あるいは結婚することが犯罪とされなくなったのは、昭和42(1967)年のことです。
第2次大戦後までは、黒人が米国の野球のメジャーリーグでプレイをすることも考えられないことでした。ゴルフ場で、キャディは黒人でしたが、黒人がゴルフを楽しむなんていうことはありえません。テニスも白人だけのものでした。
メジャーリーグで黒人がプレイできるようになったのも、タイガー・ウッズがプレイができるようになったのも、ウイリアムズ姉妹という黒人のテニスプレイヤーが活躍していますけれど、日本が先の大戦を戦って、人種平等の世界を作ったからです。黒人のオバマ大統領が登場したのも、先の大戦で日本国民が大きな犠牲を払って、人類の長い歴史の果てに人種平等の理想の世界を作り出したからです。これは、私達がおおいに誇るべきことです。
■3 条件付き降伏
さて、ミズーリ号に戻りましよう。日本は連合国が発したポツタム宣言を受諾して降伏しました。日本の多くの方は、「日本が無条件降伏をした」という嘘を信じ込まされていますが、日本は無条件降伏などしていません。「ポツタム宣言を受諾して降伏」したのです。
ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)は、昭和20(1945)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において日本に対して発せられた全13か条からなる宣言です。その第5条には次の文があります。
五 われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない。それ以外に条件は存在しない。われらは遅延を認めない。
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
要するにここには、「この条件から外れるようなことは、絶対にしない」と書いているわけです。つまりポツタム宣言は、条件付降伏を求めていた、ということです。
第7条には、「日本国の領域内の諸地点は、われらのここに指示する基本的目的の達成を確保するため、占領されるべし」とあります。つまり、日本全国を占領することはしない。「諸地点」です。日本がわれわれの要求している条件を達成するまで、連合国側は、「いくつかの地点を占領」するといっています。日本全土を占領するとは、どこにも書いてありません。アメリカが日本全国を占領したというのも、重大なポツタム宣言違反です。
第10条には、「われらの捕虜を虐待した者を含む、一切の“戦争犯罪人”に対して、厳重な処罰を加える」と書かれています。「戦争犯罪人」というのは、それまでの戦時国際法によれば、たとえば非戦闘員を殺すとか、一般市民への略奪を行うとか、あるいは女性に対して乱暴をはたらく、あるいは降伏して捕虜となった者を虐待するなどの「戦場犯罪」を意味します。
それまで、国家の指導者に対して、戦争犯罪人として責任を問うたことは人類史上には1度もありません。ですから日本がポツタム宣言を受託したときには、当然のことながら「戦争犯罪人」というのは、戦場犯罪をおかした、つまり「戦場犯罪者」を罰するのだと信じたのです。
さらに最後の第13条では、「全日本国軍隊の無条件降伏」を要求しています。書いてあるのは、「日本軍の」無条件降伏です。日本国としての無条件降伏は求めていません。第一、最初の方で、「われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない」と宣言しているのです。そう宣言しながら、日本全土を占領し、極東軍事裁判を行っているのですから、連合国による日本占領は、ポツタム宣言の重大な違反だということになります。
当時、もちろん私の父親も、日本政府として、進駐軍の振る舞いが明らかなポツタム宣言違反であるとして、マッカーサー司令部に厳重な抗議を行っています。そうしますと、「お前たちがそう言うなら、天皇を捕らえて戦争犯罪人として裁く。天皇制もこれを保障しない」と言うわけです。天皇を人質にとられてしまって、グウの音も出なかったのです。
国際法への重大な違反を犯したというのは、ポツタム宣言違反からはじまったものです。今日皆様に、記憶していただきたいのは、「日本国は無条件降伏を行っていない。日本国軍隊のみが無条件降伏をした」ということです。
日本の大新聞をはじめとして、多くのメディアは平然と、「日本が先の戦争で無条件降伏をした」と書いています。それは明らかな「嘘」です。そういう「嘘」を書くような新聞やテレビなどは、お読みになったり、ご覧にならない方が良い。今の日本では、人々が深く考えることを辞めてしまって、大新聞やテレビのいうことを鵜呑みにしてしまっています。
私は今の日本を悪くしてしまっている3つのスクリーンがあると思っています。第1がテレビのスクリーンです。テレビ放送を1年間止めたら、この国は素晴らしい国に生まれ変わると思っています。みなさんは今日、お帰りになったら、テレビに粗大ゴミの札を貼って処分された方が良い。2つめはパソコンのスクリーンです。これも害毒です。3つめが、携帯電話のスクリーンです。私はこの3つのスクリーンが、日本を悪くしていると思う。そうしたスクリーンよりも、できるだけみなさん、藤岡先生の著書とか、そういう良い本をお読みになったほうが、ためになると思います。
■4 非常識な遡及法(そきゅうほう)
マッカーサーは、進駐してきますと、9月11日に、39人の日本の指導者たちを戦争犯罪人容疑者として指名して逮捕しました。それがどのような罪に問われたのかといいますと、
「平和に対する罪」、もうひとつが
「人道に対する罪」というものです。
「平和に対する罪」、「人道に対する罪」というものは、逮捕の直前までは、世界にそんな罪は存在すらしていませんでした。法律というものは、それまでなかった法律をつくり、前にさかのぼって人を逮捕したりはできないという鉄則(法律不遡及の原則)があります。
たとえばいま急に、「東京都内で黒い革靴を履いている者は、懲役10年に処する」という法律ができて、過去10年か、20年にさかのぼって適用して捕らえて罰するとなったら、これはたいへんなことです。それと同じことを、米軍は日本に対して行いました。「平和に対する罪」、「人道に対する罪」と聞いたとき、逮捕された人たちもびっくりするし、日本政府も、それが何を意味するものなのか、まったくわかりませんでした。
翌年5月3日に、39人のA戦犯容疑者が28人に絞り込まれて、正式に容疑者とした東京裁判がはじまりました。裁判は2年半にわたって行われました。東京裁判は、まったく違法な裁判です。なぜなら戦時国際法には、国家の指導者を裁くという発想自体、まったくないからです。
東京裁判がいかにいい加減で不法なものであったのかは、まず日本がはたらいたとされる悪事のみが裁かれて、連合国側が行った東京大空襲(昭和20年3月10日に、10万人の老若男女が殺されました)や、広島長崎への原爆投下による無辜の市民の虐殺、それこそ戦争犯罪ですが、それらはすべて不問に付され、日本が行ったとされる非道についてのみが裁かれたという点でもあきらかです。そして東京裁判では、7人の国家指導者が、絞首刑に処せられるという、リンチが行われています。
■5 民族の勝利
日本は先の大戦中に、長い間西洋の植民地であった諸国を、植民地から解放しました。まず米国の植民地のフィリピンを解放しました。次いで英国の植民地だったビルマを解放しました。またインドネシアについては、日本は昭和20年9月に独立を実現することにしていました。ところがその前の8月15日に日本が力つきて降伏しています。そのときのインドネシアの独立の指導者が二人いますが、モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta)が先輩で、スカルノ(Sukarno)が後輩にあたります。デヴィ夫人のご主人です。
ハッタとスカルノは、日本が降伏してしまったので、急いでインドネシアの独立を自分たちだけの手で宣言しようとしました。これに対して、日本のインドネシアにいた軍司令官が強く反対しました。というのは、インドネシアが独立宣言を強行すれば、連合国が日本に報復として、天皇陛下の玉体に危険がおよぶことを心配したからです。司令官は、ハッタとスカルノを強く説得しましたが、ハッタとスカルノのは、8月17日に、日本が降伏をした二日後に独立宣言を強行しました。
いまでもジャカルタの中心に、ムルデカ広場があります。「ムルデカ」は、インドネシア語で「独立」をいいます。そこにはインドネシア独立宣言文が刻まれた大きな石碑が建っています。その両側にハッタとスカルノの銅像も建っています。この独立宣言文は短いものですが、最後の日付は、西暦でいいますと1945年8月17日ですが、インドネシアはイスラム国ですから、まさかキリスト教歴である西暦を使うはずがありません。ならばイスラム暦を使ったのかというと、これも使っていません。では何を使っているかというと、日本の皇紀です。
なんと皇紀を使って、2605年8月17日と刻まれています。
スカルノはこれについて、「我々は日本に感謝するために、日本のインペリアル・カレンダー、皇紀を年号として用いた」と書いています。ジャカルタにおいでになりましたら、是非ムルデカ広場に立ち寄られて、独立記念碑を御覧いただきたいと思います。
日本がインドネシアを占領していたとき、インドネシアの将来のために「インドネシア国軍」を作りました。これは「郷土防衛隊」という名稱でしたが、インドネシアでは頭文字をとって「PETA」、ペタと呼ばれています。
私はインドネシアと親しくて何回も通いました。むこうに行きますと、当時のPETAの軍人たちが私のホテルに40人、50人と夫婦で集まってきて、みな歌詞カードを持って、何をするのかと思うと、日本の軍歌を次々と合唱してくれるのです。
インドネシアでは、毎年8月17日になると、インドネシア独立記念祝典が行われます。この式典はPETAの軍服、これは日本の軍服と同じですが、その軍服を着て、日本刀を吊った将校たちが出てきて、インドネシアの国旗を掲揚するのに当たって、敬礼するところからはじまります。そして毎回インドネシアの若い女性たちの合唱団が、必ず日本の『愛国の花』などの愛国歌をメドレーで合唱いたします。
私は映画に関わってきましたが、最近になって作ったのは、『プライド』という東映の東条英機大将と東京裁判のインドのパル判事を主人公にした映画です。映画の原案も題名も、私のものです。
その次には、私の古巣の東宝から「ムルデカ」というインドネシアの独立の映画を作りました。これは日本の軍人たちが、インドネシア国軍を養成し、日本が戦争に敗れると、インドネシアにいた日本兵士2000人以上が、インドネシアの独立のために命を捧げる覚悟をして、インドネシア独立軍に加わって戦い、千人以上が戦死され、戦死された方が、インドネシア国軍の英雄墓地に埋葬されているという物語を映画化したものです。
私はその映画の中で、主人公は実在の日本人青年将校がモデルですが、敗戦後に故国に新妻を残してインドネシアに残留し、インドネシア人と一緒に戦って、独立軍が最後の勝利をおさめたところで、インドネシアの恋人と喜んでいるときに、オランダ兵に狙撃されて恋人の腕の中で息をひきとる。私はこのときのインドネシアの恋人に、こういうセリフを書きました。
主人公は「タケオ」という名前ですが、「タケオ、死なないで!日本は国家として戦争に敗れたけども、民族としては勝ったのよ!」私はジャバ島のロケに立ち会いましたが、このセリフを聞いて、涙が溢れました。
私は先の大戦に、国としては残念ながら破れましたが、民族としては日本が先の大戦に勝ったと信じています。
もし日本が日露戦争に勝つことなく、先の大戦にあれだけ大きな犠牲を払って戦うことがなかったとすれば、まだ世界の大半が驕る白人・キリスト教徒の泥靴のもとに踏みにじられて、植民地として苦しんでいたはずです。
ミズーリの艦上のことですが、日本は敗れたといっても、重光全権も、私の父親も、日本がアジアを開放するという戦争目的を達した、民族の宿願を果たしたのだという誇りを持って、甲板を踏みました。私はその誇りをよく理解することができます。
■6 東京裁判という茶番
東京裁判で日本が侵略の罪で裁かれていた、ちょうどそのときに、フランス軍が、日本が解放したベトナムを、もういちど植民地にしようとして戻ってきて、ベトナムの独立軍と戦っていました。ベトナムは、戦前は「フランス領インドシナ(仏印)」と呼ばれていました。
インドネシアでは、オランダ軍だけでは兵力が足りなかったので、英国の援けを借りて、英国とオランダの連合軍がインドネシアに侵攻して、インドネシア独立戦争が戦われていました。
日本を侵略の罪で裁いていた連合国が、その同じときに、アジアで侵略戦争を戦っていたわけです。
東京裁判については、日本の多くの国民が「あれは日本が悪事をはたらいたから当然のむくいとして裁かれた」と思っていますが、東京裁判はペテンでした。
インドのラダ・ビノード・パル (Radhabinod Pal)判事が、日本無罪論を判決書として書きました。11人の東京裁判の判事の中で、3人が反対意見を書きました。その中で、完全に日本は無罪だと説いたのは、インドのパル判事でした。
この11人の判事の中で、国際法を知っていたのは、パル判事だけでした。あとは全員が国際法に関して素人ばかりでした。もうひとり、オランダのベルナード・レーリンク(Bernard Victor Aloysius (Bert) Röling)という若い判事がいて、この人も日本が一方的に悪かったのではなかったという反対意見を書いています。
レーリンクは、回想録を残しています。その中で、帝国ホテルにみんなが泊っていて、市ヶ谷の法廷にバスで行くとき、毎日、連合国の壮大な戦争犯罪の現場、つまり東京が焼け野原だったのを往復のバスの中から見て、「これほど気の重いことはなかった」と書いています。そして日本が先の大戦を戦った一番の理由として、「白人諸国が日本人をはじめ有色人種に対して理不尽な人種差別を行ったことであった」と、日本のを擁護しています。
もうひとりが、フランスのアンリ・ベルナールという判事がいました。非常に滑稽なことですが、東京裁判は、英語と日本語で行われていました。同時通訳が行なわれて、英語で話すと日本語、日本語で話すと英語にする、という仕組みになっていましたが、ベルナール判事は、ひとことも英語がわからなかった。さぞかし忍耐強い人だったのだろうと同情しますが、何が語られているのかまったくわからないまま、壇上にいたわけです。
ベルナールも回想録を書いています。自分は毎日、法廷がひらかれている間は、何を言っているのかまったくわからず、2日後にフランス語への翻訳をフランスの代表部が作ってくれたのを読んで、ようやく何が行われていたのかを解していたのだそうです。ベルナール判事も日本が一方的に悪かったのではないという少数意見を出しています。
占領下では、マッカーサー司令部が、厳しい言論統制を行っていました。ですからパル判決書も発表されませんでしたし、ベルナール判事、レーディング判事の判決書も公表されることがありませんでした。
朝日新聞は、ほんとうに酷い新聞です。東京裁判が開廷した2年半後に東条大将以下7人が犠牲となって絞首刑に処せられたとき、朝日新聞は社説に、「この裁判は、きわめて公平に行われ、東条大将以下の処刑も、そこには報復の意図がいささかもない厳粛なものであった」と、書いています。同じ日本人が、よくはずかしげもなく書いたものだと思います。けれど当時はそれを朝日だけではなくて、毎日も読売も、よくここまで卑屈になれると思うような記事で埋まっていました。
「戦争犯罪人」は、A級、B級、C級に分けられていました。B級、C級でも1000人以上が処刑されています。これは捕虜を虐待したとか、捕虜を処刑したとか、いろいろありますが、このBC級裁判も、公正なものだったか、きわめて大部分が疑わしいものです。報復、復讐のために行われたものです。
しかし、戦後、米国は日本を占領して徹底的な洗脳を行いました。対米戦争は3年半あまりしか続いていないのに、日本に対する占領は、その2倍の時間をかけています。これも、異常なことです。
■7 準備されていた対日戦争
日本が降伏したときに、日本は全土が占領されるなどとは夢にも思いませんでした。占領期間も、まさか6年を越すような長いものにはならないと思っていました。ところが天皇陛下を人質にとられていましたから、日本としては、なにひとつ、表立ってこれに抗議することはできませんでした。
先の戦争ですが、これは私は「日本はやむにやまれず立ち上がって、自存自衛のために戦った」と申上げましたけれど、私は、当時マッカーサー元帥のもとで日本の占領にかかわった40〜50人の中心人物や、ワシントンのトルーマン政権の幹部などとインタビューを行って、本や論文を書いています。
これは公開された文書で既に明らかになっていることですが、ルーズベルト政権は、真珠湾攻撃の1年半前から国務省に極秘の研究班を設けて、私はその研究班の人から話を聞いていますが、日本と戦って日本を屈伏させたあとで、日本をどのように処理すべきか研究をはじめています。
アメリカは開戦前にはすでに日本と戦うことを決めていました。ルーズベルト大統領は、蒋介石政権から巨額のお金をもらっていました。このやり方は、いまの中国と同じです。対米工作のために、厖大な金額の「バラマキ」をしています。これは蒋介石政権が行った手口と、まったく同じものです。
ルーズベルト大統領は、対米戦争がはじまる昭和16年の春から、蒋介石政権に爆撃機と戦闘機を供給して、これを米国の陸軍航空隊の現役パイロットに操縦させて、飛行機の機体に蒋介石政権の青天白日のマークを塗り、爆撃機150機で東京、横浜、京都、大阪、神戸を奇襲爆撃して、いっきに焼き払う計画をたてていました。
戦争がはじまる前の昭和16年5月15日に、米国軍部が提出した作戦計画に、ルーズベルト大統領が承認の署名を行ない、そこにコメントも書いています。「JB (Japan bombardment)計画」という極秘計画です。
ところがその前に、ヨーロッパで、ヒットラーとチャーチルが死闘を続けていて、ヒットラーがヨーロッパ全土を占領し、イギリスが孤独な戦いを続けていた。イギリスを守るために、チャーチルから米国に、急遽爆撃機を回してほしいということになり、アメリカは対日奇襲爆撃を行うために蒋介石政権に渡すことになっていた爆撃機を英国にまわしてしまったもので、この卑屈きわまる計画は実現しませんでした。
私は、米国屋でもありますし、英語屋でもありますが、いまでも白人たちが私達日本に対して抱いている憎しみは、たいへんに強いものがあります。なぜかというと、彼ら白人たちが数世紀にわたってこの地球を支配していた体制を破壊したのが日本だからです。アメリカのエリートたちは、いまでも執拗にその憎しみを潜在的に抱いている人たちが多いものです。そういう彼らをうまく操りながら、日本の安全と繁栄をはからなければなりません。
ルーズベルト政権は、日本がのさばってきたから、ここで日本を叩き潰してやろう、つまり、日米戦争が始まる前から、日本を打ちのめして、日本を無力化させる極秘の計画をすすめていました。
本当の歴史を知らないと、ただ戦時国際法がどうだこうだとか、小さな木ばかり見ていると、肝心の森をみることができません。
さて、では先の大戦がどうして日本に強いられてしまったのか、次の講義の機会に説明したいと思います。
杜父魚文庫
私は慶応大学の学生のときから物書きでした。当時、映画会社「東宝」とシナリオのお助いをする契約を結びました。当時の大学卒の初任給が9000円くらいでしたが、毎月20000円をいただいて、高峰秀子さんの御主人の映画監督の松山善三さんとか、脚本家の井出敏郎さんなどの仕事を手伝いました。一番始めにかかわった仕事が、雑文書きと活動屋(当時は映画のことを活動写真と呼びました)です。
月刊誌《文芸春秋》に、評論家という肩書きをいただいて書くようになったのが28歳のときです。30歳のときに、東京放送(TBS)が出資して百科事典「エンサイクロペディア・ブリタニカ(Encyclopedia Britannica)」というと大英百科事典の最初の外国語版をつくるということで、私は初代編集長を勤めました。
いろいろなことをしました。私は日本の外交にも深く関わってきました。41歳のときに、福田赳夫内閣が発足して、総理から第1回福田・カーター(米大統領)会談のお膳立てを手伝ってほしいと言われて、首相特別顧問として福田首相一行がワシントンにはいる前の日に現地入りして、ホワイトハウス、国務省、国防省、議会などをまわり、日米首脳会談の詰めを手伝いました。
最後に同じ肩書きをいただいたのは中曽根内閣のときで、ロン・ヤス会談と呼ばれた中曽根総理と、ロナルド・レーガン米大統領との交渉の裏方のお手伝いをしました。
■1 戦艦ミズーリ
今日は、なにからお話しようかなと思っていましたが、このテキストの表紙の写真からお話をはじめようかと思います。
この写真は、日本国にとって屈辱の日である昭和20(1945)年9月2日に、東京湾に浮かんだ敵艦ミズーリ(Missouri)号の艦上で、我が家族にとってこれほどの屈辱の日はありませんが、日本が降伏文書に調印したときのものです。
前列にいるのが、日本政府の全権の重光葵(しげみつまもる)外相と、大本営代表の梅津美治郎(うめづよしじろう)陸軍大将の2人です。正面には、敵将マッカーサーが立っています。この写真の2列目の右から2番目に立っているのが、私の父親です。当時42歳でした。
米国によって戦争を強いられて、日本が追いつめられて存亡を賭けて、やむなく立ち上がったのは、みなさんもご承知の通り、昭和16(1941)年12月8日のことでした。私はこの日が我が民族の誇るべき日であると、確信しています。開戦時、私の父は、東郷茂徳(とうごうしげのり)外務大臣の秘書官、および日米交渉を主管して交渉の指揮をとった北米課長と、イギリス帝国課長を兼任していました。
ミズーリ艦上の降伏調印式のときも重光全権の随行員としてお供をしました。重光外相がマッカーサーの前に進み出て、降伏文書に万涙をのんで署名したとき、わきに立っていたのが私の父です。
この日の午前4時半、降伏文書に調印するために随員を含めて外務省、陸海軍の11名が、暗いなかを首相官邸に集まりました。そのときの首相が東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)です。東久邇宮首相の短い挨拶があり、全員で水盃で乾杯をしたうえで、5時半に乗用車に分乗し、一面焼け野原だった東京を抜け、同じく見渡すかぎり焼け野原となっていた横浜にはいり、焼け野原の中にポツンと残っていた横浜県庁の応接室で、しばし休憩をとりました。そして、横浜の埠頭まで移動して、そこで待機していた米軍の駆逐艦に移乗してミズーリの舷側まで行き、ミズーリのタラップをあがって、式場に着いています。
みなさんもミズーリ艦上の、あの今見ても屈辱的な降伏調印式の写真や映像を御覧になった方が多いだろうと思います。重光全権、それから私の父と2人の外務省の随員がいます。外務省員は、モーニングにシルクハットをかぶっています。最高の礼装です。
ただ、たったひとり、大田三郎という随員が、戦災ですべてを焼き出されてしまったもので、モーニングが間に合わずに、仕方なく真っ白な背広の上下を着ています。私の父も戦災で家を焼かれていたのですが、モーニングは残りましたものの、シルクハットを焼かれてしまったので、人から借りたのですが、ブカブカで、艦上で風が強く飛びそうになって、しばしば片手で押さえています。
一方、わが国の陸海軍軍人は、略装の軍服です。軍人が正式の服装をするときには、いまの警察官のような、固いツバがついた帽子をかぶります。ところが当日の軍人たちは、戦闘帽です。海軍にいたっては、カーキ色の戦闘服です。
どうして外務省の一行が正装のモーニングを着ているのに、軍人は略装だったのでしょうか。みなさんの中で答えられる方はおいででしようか。いままでこの写真や映像を見て、不思議に思われた方は、おいででしようか。おいでにならないのかもしれません。
どうしてかというと、重光全権ら外務省の一行は、畏れ多いことですが、天皇陛下を代表する立場でした。外務省の一行は敵に対してではなく、陛下に対して敬意を表して礼服を着たのでした。けれど軍人は、軍を代表していました。仇敵に敬意を払いたくなかったので、略服を着ていたわけです。
ミズーリ艦上に立った重光外相は、この13年前に中国公使(こうし)として、上海に赴任していました。当時の日本は中国に「大使(たいし)」は送っていません。世界の主要国から日本には大使が派遣されてきていましたが、日本から「大使」を送っていたのは、英国、ドイツ、イタリア、米国、ソ連などの大国に対してだけでした。二流国だった中国には「公使」です。
その上海の日に、野外で天皇誕生日の祝賀式典がありました。天皇誕生日は、昭和時代ですから5月です。この式典会場で、国歌君が代が吹奏されたので、重光公使らが壇上で立っていたところ、不逞朝鮮人が爆弾を投げました。
壇上にいた陸海軍司令官と、重光公使全員が、爆弾が足下に転がってきたのがわかりました。けれど当時の日本人ですから、国歌の吹奏中に、まさかうろたえてこれを避けるわけにいきません。直立不動の姿勢のままでいました。爆弾が爆発をして、重光公使は片足を失いました。ミズーリ艦上に立ったときの重光全権は、片足が義足です。
私は重光さんに晩年まで可愛がられました。よく存じ上げて、いろいろ話を伺う機会がありました。重光さんは私の父とミズーリの艦上に立ったときのことを、次のように述懐されました。
「あの日、敗れたという屈辱感よりも、日本が今度の戦争で多くの犠牲を払ってアジアを数世紀にわたった白人・西洋の植民地から解放したという高い誇りを胸に抱きながら、ミズーリ号の甲板を踏んだ。」
■2 人種の平等を実現した日本
日本は敗れました。しかし、その結果、アジアの諸民族が解放されました。その高波が、アフリカ大陸も洗い、次々と新しい独立国が誕生しました。数百年にもわたって続いた西洋の苛酷だった植民地支配を、日本が終止符を打ったのです。
いまから70年前に、東京で「大東亜会議(だいとうあかいぎ)」という有色人種はじめての世界サミットが催されました。日本からは、東条英機首相が出席し、満州国からは張景恵(ちょうけいけい)総理、中国は南京国民政府の汪兆銘(おうちょうめい)院長、タイ(タイは戦争前から独立国でしたが)のワンワイタヤーコーン親王殿下、フィリピンのホセ・ラウレル大統領、ビルマはバー・モウ総理大臣、チャンドラボーズ・インド仮政府首席などが一同に会しました。そして、人種平等の世界をつくることを高らかに宣言しました。
先の大戦は、「軍国主義国日本と、民主主義国だった米国が戦って、米国がファシスト日本を打倒した」という話をお聞きになってきた方も、きっとおいでのことと思います。そんなことは、まったくの嘘です。
私達が戦った米国は、同じ国民である黒人を、法的に差別していました。米国の南部諸州では黒人は一切投票することができませんでした。私は1950年代末に米国に留学をしましたが、当時の米国では、黒人と白人は、公衆便所から食堂、列車やバスの座席や水飲み場まで、あらゆるところに差別がありました。ニューヨークやワシントンでは、1960年代にはいっても、白人が使うレストランに黒人が入るということはありえないことでした。
ところが、日本がアジアを解放した結果、アフリカでも次々と独立国が生れました。そうなるとアフリカの外交官が、ワシントンやニューヨークの国連本部にやってきましたが、差別するわけにゆかない。こうなると当然のことですが、米国内の黒人も黙ってはいません。
1950年代末に、米国内でマーチン・ルーサー・キング牧師が率いる公民権運動がはじまりました。これが60年代になって実を結びます。それまではアメリカの多くの州で、白人と黒人が性的な関係を結ぶことが犯罪とされていました。まして結婚などは、認められませんでした。最後の3つの州で、白人と黒人が性的な関係を持つ、あるいは結婚することが犯罪とされなくなったのは、昭和42(1967)年のことです。
第2次大戦後までは、黒人が米国の野球のメジャーリーグでプレイをすることも考えられないことでした。ゴルフ場で、キャディは黒人でしたが、黒人がゴルフを楽しむなんていうことはありえません。テニスも白人だけのものでした。
メジャーリーグで黒人がプレイできるようになったのも、タイガー・ウッズがプレイができるようになったのも、ウイリアムズ姉妹という黒人のテニスプレイヤーが活躍していますけれど、日本が先の大戦を戦って、人種平等の世界を作ったからです。黒人のオバマ大統領が登場したのも、先の大戦で日本国民が大きな犠牲を払って、人類の長い歴史の果てに人種平等の理想の世界を作り出したからです。これは、私達がおおいに誇るべきことです。
■3 条件付き降伏
さて、ミズーリ号に戻りましよう。日本は連合国が発したポツタム宣言を受諾して降伏しました。日本の多くの方は、「日本が無条件降伏をした」という嘘を信じ込まされていますが、日本は無条件降伏などしていません。「ポツタム宣言を受諾して降伏」したのです。
ポツダム宣言(The Potsdam Declaration)は、昭和20(1945)年7月26日にアメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中華民国主席の名において日本に対して発せられた全13か条からなる宣言です。その第5条には次の文があります。
五 われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない。それ以外に条件は存在しない。われらは遅延を認めない。
(5) Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
要するにここには、「この条件から外れるようなことは、絶対にしない」と書いているわけです。つまりポツタム宣言は、条件付降伏を求めていた、ということです。
第7条には、「日本国の領域内の諸地点は、われらのここに指示する基本的目的の達成を確保するため、占領されるべし」とあります。つまり、日本全国を占領することはしない。「諸地点」です。日本がわれわれの要求している条件を達成するまで、連合国側は、「いくつかの地点を占領」するといっています。日本全土を占領するとは、どこにも書いてありません。アメリカが日本全国を占領したというのも、重大なポツタム宣言違反です。
第10条には、「われらの捕虜を虐待した者を含む、一切の“戦争犯罪人”に対して、厳重な処罰を加える」と書かれています。「戦争犯罪人」というのは、それまでの戦時国際法によれば、たとえば非戦闘員を殺すとか、一般市民への略奪を行うとか、あるいは女性に対して乱暴をはたらく、あるいは降伏して捕虜となった者を虐待するなどの「戦場犯罪」を意味します。
それまで、国家の指導者に対して、戦争犯罪人として責任を問うたことは人類史上には1度もありません。ですから日本がポツタム宣言を受託したときには、当然のことながら「戦争犯罪人」というのは、戦場犯罪をおかした、つまり「戦場犯罪者」を罰するのだと信じたのです。
さらに最後の第13条では、「全日本国軍隊の無条件降伏」を要求しています。書いてあるのは、「日本軍の」無条件降伏です。日本国としての無条件降伏は求めていません。第一、最初の方で、「われらの条件は左の通りである。われらはこれらの条件より離脱することはない」と宣言しているのです。そう宣言しながら、日本全土を占領し、極東軍事裁判を行っているのですから、連合国による日本占領は、ポツタム宣言の重大な違反だということになります。
当時、もちろん私の父親も、日本政府として、進駐軍の振る舞いが明らかなポツタム宣言違反であるとして、マッカーサー司令部に厳重な抗議を行っています。そうしますと、「お前たちがそう言うなら、天皇を捕らえて戦争犯罪人として裁く。天皇制もこれを保障しない」と言うわけです。天皇を人質にとられてしまって、グウの音も出なかったのです。
国際法への重大な違反を犯したというのは、ポツタム宣言違反からはじまったものです。今日皆様に、記憶していただきたいのは、「日本国は無条件降伏を行っていない。日本国軍隊のみが無条件降伏をした」ということです。
日本の大新聞をはじめとして、多くのメディアは平然と、「日本が先の戦争で無条件降伏をした」と書いています。それは明らかな「嘘」です。そういう「嘘」を書くような新聞やテレビなどは、お読みになったり、ご覧にならない方が良い。今の日本では、人々が深く考えることを辞めてしまって、大新聞やテレビのいうことを鵜呑みにしてしまっています。
私は今の日本を悪くしてしまっている3つのスクリーンがあると思っています。第1がテレビのスクリーンです。テレビ放送を1年間止めたら、この国は素晴らしい国に生まれ変わると思っています。みなさんは今日、お帰りになったら、テレビに粗大ゴミの札を貼って処分された方が良い。2つめはパソコンのスクリーンです。これも害毒です。3つめが、携帯電話のスクリーンです。私はこの3つのスクリーンが、日本を悪くしていると思う。そうしたスクリーンよりも、できるだけみなさん、藤岡先生の著書とか、そういう良い本をお読みになったほうが、ためになると思います。
■4 非常識な遡及法(そきゅうほう)
マッカーサーは、進駐してきますと、9月11日に、39人の日本の指導者たちを戦争犯罪人容疑者として指名して逮捕しました。それがどのような罪に問われたのかといいますと、
「平和に対する罪」、もうひとつが
「人道に対する罪」というものです。
「平和に対する罪」、「人道に対する罪」というものは、逮捕の直前までは、世界にそんな罪は存在すらしていませんでした。法律というものは、それまでなかった法律をつくり、前にさかのぼって人を逮捕したりはできないという鉄則(法律不遡及の原則)があります。
たとえばいま急に、「東京都内で黒い革靴を履いている者は、懲役10年に処する」という法律ができて、過去10年か、20年にさかのぼって適用して捕らえて罰するとなったら、これはたいへんなことです。それと同じことを、米軍は日本に対して行いました。「平和に対する罪」、「人道に対する罪」と聞いたとき、逮捕された人たちもびっくりするし、日本政府も、それが何を意味するものなのか、まったくわかりませんでした。
翌年5月3日に、39人のA戦犯容疑者が28人に絞り込まれて、正式に容疑者とした東京裁判がはじまりました。裁判は2年半にわたって行われました。東京裁判は、まったく違法な裁判です。なぜなら戦時国際法には、国家の指導者を裁くという発想自体、まったくないからです。
東京裁判がいかにいい加減で不法なものであったのかは、まず日本がはたらいたとされる悪事のみが裁かれて、連合国側が行った東京大空襲(昭和20年3月10日に、10万人の老若男女が殺されました)や、広島長崎への原爆投下による無辜の市民の虐殺、それこそ戦争犯罪ですが、それらはすべて不問に付され、日本が行ったとされる非道についてのみが裁かれたという点でもあきらかです。そして東京裁判では、7人の国家指導者が、絞首刑に処せられるという、リンチが行われています。
■5 民族の勝利
日本は先の大戦中に、長い間西洋の植民地であった諸国を、植民地から解放しました。まず米国の植民地のフィリピンを解放しました。次いで英国の植民地だったビルマを解放しました。またインドネシアについては、日本は昭和20年9月に独立を実現することにしていました。ところがその前の8月15日に日本が力つきて降伏しています。そのときのインドネシアの独立の指導者が二人いますが、モハマッド・ハッタ(Mohammad Hatta)が先輩で、スカルノ(Sukarno)が後輩にあたります。デヴィ夫人のご主人です。
ハッタとスカルノは、日本が降伏してしまったので、急いでインドネシアの独立を自分たちだけの手で宣言しようとしました。これに対して、日本のインドネシアにいた軍司令官が強く反対しました。というのは、インドネシアが独立宣言を強行すれば、連合国が日本に報復として、天皇陛下の玉体に危険がおよぶことを心配したからです。司令官は、ハッタとスカルノを強く説得しましたが、ハッタとスカルノのは、8月17日に、日本が降伏をした二日後に独立宣言を強行しました。
いまでもジャカルタの中心に、ムルデカ広場があります。「ムルデカ」は、インドネシア語で「独立」をいいます。そこにはインドネシア独立宣言文が刻まれた大きな石碑が建っています。その両側にハッタとスカルノの銅像も建っています。この独立宣言文は短いものですが、最後の日付は、西暦でいいますと1945年8月17日ですが、インドネシアはイスラム国ですから、まさかキリスト教歴である西暦を使うはずがありません。ならばイスラム暦を使ったのかというと、これも使っていません。では何を使っているかというと、日本の皇紀です。
なんと皇紀を使って、2605年8月17日と刻まれています。
スカルノはこれについて、「我々は日本に感謝するために、日本のインペリアル・カレンダー、皇紀を年号として用いた」と書いています。ジャカルタにおいでになりましたら、是非ムルデカ広場に立ち寄られて、独立記念碑を御覧いただきたいと思います。
日本がインドネシアを占領していたとき、インドネシアの将来のために「インドネシア国軍」を作りました。これは「郷土防衛隊」という名稱でしたが、インドネシアでは頭文字をとって「PETA」、ペタと呼ばれています。
私はインドネシアと親しくて何回も通いました。むこうに行きますと、当時のPETAの軍人たちが私のホテルに40人、50人と夫婦で集まってきて、みな歌詞カードを持って、何をするのかと思うと、日本の軍歌を次々と合唱してくれるのです。
インドネシアでは、毎年8月17日になると、インドネシア独立記念祝典が行われます。この式典はPETAの軍服、これは日本の軍服と同じですが、その軍服を着て、日本刀を吊った将校たちが出てきて、インドネシアの国旗を掲揚するのに当たって、敬礼するところからはじまります。そして毎回インドネシアの若い女性たちの合唱団が、必ず日本の『愛国の花』などの愛国歌をメドレーで合唱いたします。
私は映画に関わってきましたが、最近になって作ったのは、『プライド』という東映の東条英機大将と東京裁判のインドのパル判事を主人公にした映画です。映画の原案も題名も、私のものです。
その次には、私の古巣の東宝から「ムルデカ」というインドネシアの独立の映画を作りました。これは日本の軍人たちが、インドネシア国軍を養成し、日本が戦争に敗れると、インドネシアにいた日本兵士2000人以上が、インドネシアの独立のために命を捧げる覚悟をして、インドネシア独立軍に加わって戦い、千人以上が戦死され、戦死された方が、インドネシア国軍の英雄墓地に埋葬されているという物語を映画化したものです。
私はその映画の中で、主人公は実在の日本人青年将校がモデルですが、敗戦後に故国に新妻を残してインドネシアに残留し、インドネシア人と一緒に戦って、独立軍が最後の勝利をおさめたところで、インドネシアの恋人と喜んでいるときに、オランダ兵に狙撃されて恋人の腕の中で息をひきとる。私はこのときのインドネシアの恋人に、こういうセリフを書きました。
主人公は「タケオ」という名前ですが、「タケオ、死なないで!日本は国家として戦争に敗れたけども、民族としては勝ったのよ!」私はジャバ島のロケに立ち会いましたが、このセリフを聞いて、涙が溢れました。
私は先の大戦に、国としては残念ながら破れましたが、民族としては日本が先の大戦に勝ったと信じています。
もし日本が日露戦争に勝つことなく、先の大戦にあれだけ大きな犠牲を払って戦うことがなかったとすれば、まだ世界の大半が驕る白人・キリスト教徒の泥靴のもとに踏みにじられて、植民地として苦しんでいたはずです。
ミズーリの艦上のことですが、日本は敗れたといっても、重光全権も、私の父親も、日本がアジアを開放するという戦争目的を達した、民族の宿願を果たしたのだという誇りを持って、甲板を踏みました。私はその誇りをよく理解することができます。
■6 東京裁判という茶番
東京裁判で日本が侵略の罪で裁かれていた、ちょうどそのときに、フランス軍が、日本が解放したベトナムを、もういちど植民地にしようとして戻ってきて、ベトナムの独立軍と戦っていました。ベトナムは、戦前は「フランス領インドシナ(仏印)」と呼ばれていました。
インドネシアでは、オランダ軍だけでは兵力が足りなかったので、英国の援けを借りて、英国とオランダの連合軍がインドネシアに侵攻して、インドネシア独立戦争が戦われていました。
日本を侵略の罪で裁いていた連合国が、その同じときに、アジアで侵略戦争を戦っていたわけです。
東京裁判については、日本の多くの国民が「あれは日本が悪事をはたらいたから当然のむくいとして裁かれた」と思っていますが、東京裁判はペテンでした。
インドのラダ・ビノード・パル (Radhabinod Pal)判事が、日本無罪論を判決書として書きました。11人の東京裁判の判事の中で、3人が反対意見を書きました。その中で、完全に日本は無罪だと説いたのは、インドのパル判事でした。
この11人の判事の中で、国際法を知っていたのは、パル判事だけでした。あとは全員が国際法に関して素人ばかりでした。もうひとり、オランダのベルナード・レーリンク(Bernard Victor Aloysius (Bert) Röling)という若い判事がいて、この人も日本が一方的に悪かったのではなかったという反対意見を書いています。
レーリンクは、回想録を残しています。その中で、帝国ホテルにみんなが泊っていて、市ヶ谷の法廷にバスで行くとき、毎日、連合国の壮大な戦争犯罪の現場、つまり東京が焼け野原だったのを往復のバスの中から見て、「これほど気の重いことはなかった」と書いています。そして日本が先の大戦を戦った一番の理由として、「白人諸国が日本人をはじめ有色人種に対して理不尽な人種差別を行ったことであった」と、日本のを擁護しています。
もうひとりが、フランスのアンリ・ベルナールという判事がいました。非常に滑稽なことですが、東京裁判は、英語と日本語で行われていました。同時通訳が行なわれて、英語で話すと日本語、日本語で話すと英語にする、という仕組みになっていましたが、ベルナール判事は、ひとことも英語がわからなかった。さぞかし忍耐強い人だったのだろうと同情しますが、何が語られているのかまったくわからないまま、壇上にいたわけです。
ベルナールも回想録を書いています。自分は毎日、法廷がひらかれている間は、何を言っているのかまったくわからず、2日後にフランス語への翻訳をフランスの代表部が作ってくれたのを読んで、ようやく何が行われていたのかを解していたのだそうです。ベルナール判事も日本が一方的に悪かったのではないという少数意見を出しています。
占領下では、マッカーサー司令部が、厳しい言論統制を行っていました。ですからパル判決書も発表されませんでしたし、ベルナール判事、レーディング判事の判決書も公表されることがありませんでした。
朝日新聞は、ほんとうに酷い新聞です。東京裁判が開廷した2年半後に東条大将以下7人が犠牲となって絞首刑に処せられたとき、朝日新聞は社説に、「この裁判は、きわめて公平に行われ、東条大将以下の処刑も、そこには報復の意図がいささかもない厳粛なものであった」と、書いています。同じ日本人が、よくはずかしげもなく書いたものだと思います。けれど当時はそれを朝日だけではなくて、毎日も読売も、よくここまで卑屈になれると思うような記事で埋まっていました。
「戦争犯罪人」は、A級、B級、C級に分けられていました。B級、C級でも1000人以上が処刑されています。これは捕虜を虐待したとか、捕虜を処刑したとか、いろいろありますが、このBC級裁判も、公正なものだったか、きわめて大部分が疑わしいものです。報復、復讐のために行われたものです。
しかし、戦後、米国は日本を占領して徹底的な洗脳を行いました。対米戦争は3年半あまりしか続いていないのに、日本に対する占領は、その2倍の時間をかけています。これも、異常なことです。
■7 準備されていた対日戦争
日本が降伏したときに、日本は全土が占領されるなどとは夢にも思いませんでした。占領期間も、まさか6年を越すような長いものにはならないと思っていました。ところが天皇陛下を人質にとられていましたから、日本としては、なにひとつ、表立ってこれに抗議することはできませんでした。
先の戦争ですが、これは私は「日本はやむにやまれず立ち上がって、自存自衛のために戦った」と申上げましたけれど、私は、当時マッカーサー元帥のもとで日本の占領にかかわった40〜50人の中心人物や、ワシントンのトルーマン政権の幹部などとインタビューを行って、本や論文を書いています。
これは公開された文書で既に明らかになっていることですが、ルーズベルト政権は、真珠湾攻撃の1年半前から国務省に極秘の研究班を設けて、私はその研究班の人から話を聞いていますが、日本と戦って日本を屈伏させたあとで、日本をどのように処理すべきか研究をはじめています。
アメリカは開戦前にはすでに日本と戦うことを決めていました。ルーズベルト大統領は、蒋介石政権から巨額のお金をもらっていました。このやり方は、いまの中国と同じです。対米工作のために、厖大な金額の「バラマキ」をしています。これは蒋介石政権が行った手口と、まったく同じものです。
ルーズベルト大統領は、対米戦争がはじまる昭和16年の春から、蒋介石政権に爆撃機と戦闘機を供給して、これを米国の陸軍航空隊の現役パイロットに操縦させて、飛行機の機体に蒋介石政権の青天白日のマークを塗り、爆撃機150機で東京、横浜、京都、大阪、神戸を奇襲爆撃して、いっきに焼き払う計画をたてていました。
戦争がはじまる前の昭和16年5月15日に、米国軍部が提出した作戦計画に、ルーズベルト大統領が承認の署名を行ない、そこにコメントも書いています。「JB (Japan bombardment)計画」という極秘計画です。
ところがその前に、ヨーロッパで、ヒットラーとチャーチルが死闘を続けていて、ヒットラーがヨーロッパ全土を占領し、イギリスが孤独な戦いを続けていた。イギリスを守るために、チャーチルから米国に、急遽爆撃機を回してほしいということになり、アメリカは対日奇襲爆撃を行うために蒋介石政権に渡すことになっていた爆撃機を英国にまわしてしまったもので、この卑屈きわまる計画は実現しませんでした。
私は、米国屋でもありますし、英語屋でもありますが、いまでも白人たちが私達日本に対して抱いている憎しみは、たいへんに強いものがあります。なぜかというと、彼ら白人たちが数世紀にわたってこの地球を支配していた体制を破壊したのが日本だからです。アメリカのエリートたちは、いまでも執拗にその憎しみを潜在的に抱いている人たちが多いものです。そういう彼らをうまく操りながら、日本の安全と繁栄をはからなければなりません。
ルーズベルト政権は、日本がのさばってきたから、ここで日本を叩き潰してやろう、つまり、日米戦争が始まる前から、日本を打ちのめして、日本を無力化させる極秘の計画をすすめていました。
本当の歴史を知らないと、ただ戦時国際法がどうだこうだとか、小さな木ばかり見ていると、肝心の森をみることができません。
さて、では先の大戦がどうして日本に強いられてしまったのか、次の講義の機会に説明したいと思います。
杜父魚文庫
2013年2月9日土曜日
日本を見くびってはいけない
昨日は雪がちらつきました。
今日も寒さは厳しい。
シナ政府はレーダー照射は政府の関与なしといいました。
現場が勝手にやったという主張。
今尖閣での威嚇侵犯は静かになってます。
日本政府は今後このようなことがあれば、政府主導か現場の独走か見極めて対処するらしい。
シナキンピラ政府は軍の暴走を止めることが出来ないのか・・・。
しばらく様子見です。
軍閥の国ですから・・・統制は出来ないのか・・・?
日本を見くびってはいけない。
中共軍はたいした戦歴はない。
日本軍は強い。
大東亜戦争も負けたのではない。
終戦である・・・戦を終わらせたのである。
陛下のご聖断によって。
2013年2月7日木曜日
普通の国は戦闘に入る・・・舐められた日本
レーダー照射 中国外務省「知らぬ」一点張り
2013/02/07 08:25更新
このニュース記事のカテゴリは世界からです。
この記事に関連するフォト・情報
記事本文
【北京=川越一】中国海軍の艦艇が海上自衛隊の護衛艦とヘリコプターに射撃管制用のレーダーを照射していたことに対し、安倍晋三首相は6日、強い遺憾の意を表明した。中国外務省は米政府の警告が影響してか、関与していないとの立場を強調した。
中国外務省の華春瑩報道官は6日の定例記者会見で、中国海軍のフリゲート艦による海上自衛隊の護衛艦に対する射撃管制用レーダー照射について、同省が状況を把握していなかったとの立場を表明した。日本政府による5日の抗議についても反論しなかった。
レーダー照射に対するコメントを繰り返し求められた華報道官は「報道を見てから関連の情報を知った。具体的な状況は理解していない。関係部署に聞くように」の一点張り。軍による挑発行動とはいえ、外交問題に発展する事案を中国外務省が知らなかった“失態”を突かれても、言葉を詰まらせながら、「そう理解してもらっていい」と回答を避けた。
華報道官は「釣魚島(沖縄県・尖閣諸島の中国名)は中国の固有の領土だ」と従来の主張を繰り返した上で、中国の公船が尖閣諸島周辺を航行することについて「正常だ」と述べるのが精いっぱいだった。
こうした中国外務省の姿勢から、レーダー照射が軍の単独行動だったのではとの見方が出ている。あるいは、尖閣諸島をめぐる対日姿勢について、軍と政府の意思疎通が図られておらず、足並みが乱れている可能性もある。
中国外務省の華春瑩報道官は6日の定例記者会見で、中国海軍のフリゲート艦による海上自衛隊の護衛艦に対する射撃管制用レーダー照射について、同省が状況を把握していなかったとの立場を表明した。日本政府による5日の抗議についても反論しなかった。
レーダー照射に対するコメントを繰り返し求められた華報道官は「報道を見てから関連の情報を知った。具体的な状況は理解していない。関係部署に聞くように」の一点張り。軍による挑発行動とはいえ、外交問題に発展する事案を中国外務省が知らなかった“失態”を突かれても、言葉を詰まらせながら、「そう理解してもらっていい」と回答を避けた。
華報道官は「釣魚島(沖縄県・尖閣諸島の中国名)は中国の固有の領土だ」と従来の主張を繰り返した上で、中国の公船が尖閣諸島周辺を航行することについて「正常だ」と述べるのが精いっぱいだった。
こうした中国外務省の姿勢から、レーダー照射が軍の単独行動だったのではとの見方が出ている。あるいは、尖閣諸島をめぐる対日姿勢について、軍と政府の意思疎通が図られておらず、足並みが乱れている可能性もある。
関連記事
記事本文の続き 6日付の中国各紙のほとんどは日本メディアの報道を引用する形で、事実関係を小さく伝えるにとどまった。報道の中で、中国の軍事専門家はレーダー照射を「警告の性質を帯びた自衛行為」と定義。中国共産党機関紙、人民日報傘下の国際情報紙、環球時報は「現在の中日関係の情勢は一触即発の状況には至っていない」とする専門家の意見を伝えるなど事態悪化を望まない意向が見え隠れしている。また、法制晩報は「日本は一方的に情報を発信し国際社会の同情を得ようとしている」との専門家による分析記事を伝えた。
こうした中、国営新華社通信は同日、習近平総書記が2日と4日、空軍基地、酒泉衛星発射センター、蘭州軍区を視察したと報道。習氏は「軍事闘争の準備の深化」を指示し戦闘能力の強化などを命じたという。
こうした中、国営新華社通信は同日、習近平総書記が2日と4日、空軍基地、酒泉衛星発射センター、蘭州軍区を視察したと報道。習氏は「軍事闘争の準備の深化」を指示し戦闘能力の強化などを命じたという。
視覚上ニュース記事の一部を非表示にしています。次のクリックラベルブロックはJavaScriptが有効、CSSが有効な時のみ使用可能:
Ads by Google
世界の皆様こんにちは。
今日本で大きな問題が起こってます。
上記の記事にありますようにシナ海軍が日本の自衛隊にミサイル発射時のレーダー照射をした問題です。
もしコレが米国であれば即戦闘状態です。
悔しいかな・・・日本は舐められてます・・・シナに。
米国にはシナはこんなチョッカイはかけません。
シナ政府は知らなかった・・と
ウスラとぼけております。
尖閣諸島は歴史的にも日本領土。
この近海に海底資源が眠ってると言うことが分かってから
シナはここはシナの領土と言い出しました。
シナとは言うたもん勝ちのならず者国家。
ここは一歩も引けません。
世界の皆様、
こういう事態に日本はおかれておりますがイチャモン国家には負けません。
これからも愛すべき日本を宜しくお願い居致します。
皆様が益々お幸せでありますように
神に祈ります。
2013年2月3日日曜日
2013年2月1日金曜日
国体護持の平沼質問
山田方谷と平沼赳夫の所信表明 西村眞悟
2013.02.01 Friday name : kajikablog
昨日一月三十一日を以て各党の代表質問が済んだ。これは、総理の所信表明に対する代表質問であるから、質問を通じて各党代表がその所信(政治信念)を表明するものでなければならない。
その意味で、三十日の維新の会平沼赳夫団長の代表質問は、まことに所信表明の名に値する唯一のものだった。
平沼質問は冒頭の二項目において「群」を抜いていたのである。その抜かれた「群」(むれ)のなかに、安倍総理の所信表明も入る。
では、冒頭の二項目とは何か、皇統維持、國體護持、のこと。そして、日本国憲法とは何か、ということ。
記憶を辿って戴きたい。
今までの歴代総理の所信表明と党代表の質問、即ち、衆議院本会議場に於ける論戦において、未だかつて、我が国の最重要課題である不可分一体のこの二項目を、真っ正面から取りあげた所信表明が為されたであろうか。
この二つの課題は、我が国の太古から顕れて現在に至る我が国の「国の形」、即ち、「國體」と根本規範を我が身に血肉化している「士」でなければ提起し得ないものである。
「戦後からの脱却」とは、この我が国の國體と根本規範を取り戻すということなのだ。
何故なら、「戦後」とは、まさにこの「國體」を封印して我が国を商人国家に閉じこめ、国民にエコノミックアニマルとして生きることを奨励する時代であるからだ。
しかし、深思して欲しい。
我が国の、國體から目を逸らして、本会議場で効率的か効率的でないか、採算はとれるのかとれないのか、儲かるか儲からないかの話をしているだけで、国は保つのか。
日本が日本でなくなって、無国籍で要領の良い者だけが金を儲けて得意に生きる、三島由紀夫が嘆いた「無機質で抜け目のない国」に住みたくないならば、
今こそ抽象的な「日本を取り戻す」というスローガンで、自民党のようにお茶を濁すのではなく、日本の國體、皇統継承の原則、さらに我が国の真の憲法即ち根本規範を取り戻さねばならない。
屈原曰く、「衆人皆酔うも、我一人醒む」と。この度の、国会論戦、総理以下皆、未だ戦後体制に酔う衆人、平沼赳夫団長、一人醒む。
昨日三十一日、院内の控え室で平沼団長と会ったとき、「昨日は、ご苦労様でした。私の知人は、涙を流して先生の代表質問を聞いていたと言っていましたよ」とお伝えした。
さて、この度の平沼質問の格調は、備中松山藩の山田方谷の哲学と事跡を紹介したことからももたらされている。
平沼赳夫団長は、本会議場で、「我が郷里岡山、備中松山藩の山田方谷は・・・」、と語り始められた。何故なら、現下の我が国を取り巻く内外の情勢の中で、山田方谷に学ぶことは、死活的に重要であるからだ。
次に、山田方谷の実践を一つ紹介する。
山田方谷は、藩侯から最貧状態に陥った備中松山藩の財政立て直しを命じられた。その時、彼は、財政を立て直すために、同時に、教育(文)を立て直し、軍備(武)を増強する、と主張した。
周囲皆反対した。その資金がないと。そこで、山田方谷は彼等に問うた。
そういう今までの考えで藩の財政を立て直し得たのか、財政の「専門家」を自認する君たちが何故今まで藩財政の立て直しに失敗し続けてきたのか、その理由をまず私に説明せよ。
資金がないから何もできないという課題の中に埋没した考えを止め、その課題の外の大局に立て。
山田方谷は、八十年後のケインズに先駆けて幕末にケインズ的手法(公共事業、資金の流通拡大、減税)で藩財政を一挙に再建した。
数年後には、旅人は標識が無くとも、整備された道路と田畑の状況から、備中松山藩内に入ったと分かったという。
先祖が、山田方谷に共鳴して援助もした備中の庄屋である矢吹邦彦氏は、山田方谷の実践を調べて、「ケインズに先駆けた日本人・・・山田方谷外伝」と「炎の陽明学・・・山田方谷伝」を書かれている(共に、明徳出版)。ご一読されたい。
私は、幕末の山田方谷と西郷隆盛を最も尊崇している。
二人は同時代を生き抜き、ともに尊皇の志篤く、そして同じ年(明治十年)に没した。さらに、両者没後六十三年目の昭和十三年、山田方谷の養子の孫である山田準が、「西郷南洲遺訓」(岩波文庫)を編纂した。
両者は、考え方も同じである。次に、今に通用する山田方谷の実践と同じ西郷さんの言葉を遺訓から紹介する。
「政(まつりごと)の大體は、文を興し、武を振るひ、農を励ますの三つにあり。其他百般の事務は皆この三つの物を助くるの具也」
今こそ、我々は、この西郷さんの遺訓と山田方谷の実践から学ばなければ、国土を奪われ国家を属国にされる、このことを自覚されたい。即ち、今こそ、我が国の、文を興し、武を振るい、農を励ますのだ。
なお、平沼団長も指摘されていたが、農民兵つまり身分を越えた編成の国民軍を最初に組織して洋式訓練を施したのは、長州の高杉晋作ではなく、山田方谷である。
「方谷全集」を見ると、部隊行進の隊形の図式と、それを命じるオランダ語の号令が方谷の手によって詳しく書かれている。
長州の吉田松陰門下の英傑久坂玄瑞は、長州に帰る途上、備中松山藩に立ち寄った際、この洋式の号令一下自在に隊列を変えて運動する国民軍の軍事訓練を見て腰を抜かし、帰国して報告した。それが後の長州の奇兵隊につながる。
備中松山藩のお城は今でも残っている。何故なら、戊辰戦争において、長州の奇兵隊は、佐幕方の備中松山藩の国民軍(奇兵隊)を恐れて攻め入ることを控えたからだ。
小藩だと軽くみて備中松山藩内に攻め入れば、山田方谷の精鋭である洋式装備と洋式訓練の国民軍に、こてんぱーにやられる、と判断したのだ。
このことからも明らかなように、「武を振るう」とは、戦争をすることにつながるよりも、戦争を回避することにつながるのだ。よって、我が国は、今こそ、武を振るわねばならない。
そうすれば、中共は、曾て長州が備中松山藩に攻め入ることを控えたように、日本を恐れ、尖閣への武力行使を控える。
三十日の平沼赳夫代表質問は、あたかも山田方谷と西郷さんが、平沼先生を通じて、同時に語っているようだった。まことに、有り難い、真の代表質問だった。
杜父魚文庫
その意味で、三十日の維新の会平沼赳夫団長の代表質問は、まことに所信表明の名に値する唯一のものだった。
平沼質問は冒頭の二項目において「群」を抜いていたのである。その抜かれた「群」(むれ)のなかに、安倍総理の所信表明も入る。
では、冒頭の二項目とは何か、皇統維持、國體護持、のこと。そして、日本国憲法とは何か、ということ。
記憶を辿って戴きたい。
今までの歴代総理の所信表明と党代表の質問、即ち、衆議院本会議場に於ける論戦において、未だかつて、我が国の最重要課題である不可分一体のこの二項目を、真っ正面から取りあげた所信表明が為されたであろうか。
この二つの課題は、我が国の太古から顕れて現在に至る我が国の「国の形」、即ち、「國體」と根本規範を我が身に血肉化している「士」でなければ提起し得ないものである。
「戦後からの脱却」とは、この我が国の國體と根本規範を取り戻すということなのだ。
何故なら、「戦後」とは、まさにこの「國體」を封印して我が国を商人国家に閉じこめ、国民にエコノミックアニマルとして生きることを奨励する時代であるからだ。
しかし、深思して欲しい。
我が国の、國體から目を逸らして、本会議場で効率的か効率的でないか、採算はとれるのかとれないのか、儲かるか儲からないかの話をしているだけで、国は保つのか。
日本が日本でなくなって、無国籍で要領の良い者だけが金を儲けて得意に生きる、三島由紀夫が嘆いた「無機質で抜け目のない国」に住みたくないならば、
今こそ抽象的な「日本を取り戻す」というスローガンで、自民党のようにお茶を濁すのではなく、日本の國體、皇統継承の原則、さらに我が国の真の憲法即ち根本規範を取り戻さねばならない。
屈原曰く、「衆人皆酔うも、我一人醒む」と。この度の、国会論戦、総理以下皆、未だ戦後体制に酔う衆人、平沼赳夫団長、一人醒む。
昨日三十一日、院内の控え室で平沼団長と会ったとき、「昨日は、ご苦労様でした。私の知人は、涙を流して先生の代表質問を聞いていたと言っていましたよ」とお伝えした。
さて、この度の平沼質問の格調は、備中松山藩の山田方谷の哲学と事跡を紹介したことからももたらされている。
平沼赳夫団長は、本会議場で、「我が郷里岡山、備中松山藩の山田方谷は・・・」、と語り始められた。何故なら、現下の我が国を取り巻く内外の情勢の中で、山田方谷に学ぶことは、死活的に重要であるからだ。
次に、山田方谷の実践を一つ紹介する。
山田方谷は、藩侯から最貧状態に陥った備中松山藩の財政立て直しを命じられた。その時、彼は、財政を立て直すために、同時に、教育(文)を立て直し、軍備(武)を増強する、と主張した。
周囲皆反対した。その資金がないと。そこで、山田方谷は彼等に問うた。
そういう今までの考えで藩の財政を立て直し得たのか、財政の「専門家」を自認する君たちが何故今まで藩財政の立て直しに失敗し続けてきたのか、その理由をまず私に説明せよ。
資金がないから何もできないという課題の中に埋没した考えを止め、その課題の外の大局に立て。
山田方谷は、八十年後のケインズに先駆けて幕末にケインズ的手法(公共事業、資金の流通拡大、減税)で藩財政を一挙に再建した。
数年後には、旅人は標識が無くとも、整備された道路と田畑の状況から、備中松山藩内に入ったと分かったという。
先祖が、山田方谷に共鳴して援助もした備中の庄屋である矢吹邦彦氏は、山田方谷の実践を調べて、「ケインズに先駆けた日本人・・・山田方谷外伝」と「炎の陽明学・・・山田方谷伝」を書かれている(共に、明徳出版)。ご一読されたい。
私は、幕末の山田方谷と西郷隆盛を最も尊崇している。
二人は同時代を生き抜き、ともに尊皇の志篤く、そして同じ年(明治十年)に没した。さらに、両者没後六十三年目の昭和十三年、山田方谷の養子の孫である山田準が、「西郷南洲遺訓」(岩波文庫)を編纂した。
両者は、考え方も同じである。次に、今に通用する山田方谷の実践と同じ西郷さんの言葉を遺訓から紹介する。
「政(まつりごと)の大體は、文を興し、武を振るひ、農を励ますの三つにあり。其他百般の事務は皆この三つの物を助くるの具也」
今こそ、我々は、この西郷さんの遺訓と山田方谷の実践から学ばなければ、国土を奪われ国家を属国にされる、このことを自覚されたい。即ち、今こそ、我が国の、文を興し、武を振るい、農を励ますのだ。
なお、平沼団長も指摘されていたが、農民兵つまり身分を越えた編成の国民軍を最初に組織して洋式訓練を施したのは、長州の高杉晋作ではなく、山田方谷である。
「方谷全集」を見ると、部隊行進の隊形の図式と、それを命じるオランダ語の号令が方谷の手によって詳しく書かれている。
長州の吉田松陰門下の英傑久坂玄瑞は、長州に帰る途上、備中松山藩に立ち寄った際、この洋式の号令一下自在に隊列を変えて運動する国民軍の軍事訓練を見て腰を抜かし、帰国して報告した。それが後の長州の奇兵隊につながる。
備中松山藩のお城は今でも残っている。何故なら、戊辰戦争において、長州の奇兵隊は、佐幕方の備中松山藩の国民軍(奇兵隊)を恐れて攻め入ることを控えたからだ。
小藩だと軽くみて備中松山藩内に攻め入れば、山田方谷の精鋭である洋式装備と洋式訓練の国民軍に、こてんぱーにやられる、と判断したのだ。
このことからも明らかなように、「武を振るう」とは、戦争をすることにつながるよりも、戦争を回避することにつながるのだ。よって、我が国は、今こそ、武を振るわねばならない。
そうすれば、中共は、曾て長州が備中松山藩に攻め入ることを控えたように、日本を恐れ、尖閣への武力行使を控える。
三十日の平沼赳夫代表質問は、あたかも山田方谷と西郷さんが、平沼先生を通じて、同時に語っているようだった。まことに、有り難い、真の代表質問だった。
杜父魚文庫
平沼赳夫団長の
衆議院本会議の代表質問が30日にあった。
素晴らしい格調高いものであった。
国士西村が絶賛した平沼質問。
国体護持に触れた出だしから・・・山田方谷の話。
会議場はシ~ンと静まり返った。
ニコ動で観た・・・終了後に。
時間オーバーになり
衆議院副議長が
なんと
あの
国賊赤松。
時間オーバーを警告すると
一斉にブーイング。
赤松黙れ!
888888888
正確ではないが・・・確かそのような書き込みが。
売国奴には聴いても分からん高尚な内容。
死んでも分からんヤロね。
赤松はどうでもいいが、
とにかく素晴らしい
質問であった。
登録:
投稿 (Atom)