2013年7月28日日曜日

テキサス親父の快挙!!!

東アジア黙示録より

help RSS テキサス親父が“実弾”発掘…封印解かれた慰安婦調書

<<   作成日時 : 2013/07/26 00:55   >>
みんな大好きテキサス親父が、スクープ発掘。激戦地で米軍が行なった慰安婦聞き取り調査が鮮明に浮かび上がる。そして禁断のリポート7枚目が遂に封印を解かれた。
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昭和17年5月、我が軍の第148連隊は、ビルマ北部のミートキーナ市街に突撃、占領を果たした。そこは重慶派遣軍と英印軍旅団の司令部が置かれた要衝だった。

ミートキーナ(Myitkyina=ミッチナ)は、ラングーンと昆明を結ぶ“ビルマ公路”の途上にあった。すぐ西にはインド・ナガランド、東には雲南の大理。いわゆる援蒋ルートのひとつだ。
▼昭和18年春のビルマ戦線
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我が軍のビルマ進出で、連合軍は輸送を空路に限られた。その為に繰り返しミートキーナ奪還作戦が敢行される。北部のジャングルを舞台にした我が軍と英インド人部隊の死闘だった。

ミートキーナには西・北ふたつの飛行場が整備されていた。全体の戦況をも左右する重要な根拠地でもあったのだ。やがて連合軍の反攻が始まる。
▼ミートキーナ上空の米軍機
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昭和19年5月、英軍空挺部隊が相次いで降下。鉄橋は爆破され、奇襲を受けて西飛行場は敵の手に落ちた。我が軍は、水上源蔵少将(陸士23期)率いる第56歩兵団を急派する。

「ミートキーナを死守すべし」

命じたのは33軍作戦参謀・辻政信大佐だ。米軍機による空爆も激化する中、大勢を変えるのは難しかった。市街地を追われた水上少将は、部下をイラワジ河東岸に移すことを決意した。
▼水上源蔵陸軍中将(没後特進)
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「負傷者は万難を排し筏によりイラワジ河を流下せしむるにつきバーモに於いて救助されたし」

水上少将は部隊の最後の1人が河を渡り終えたのを見届けると、東に向き直り、宮城遥拝した後、自決された。昭和19年8月4日の出来事である。

約80日間に及んだミートキーナ攻防戦。我が軍の将兵2,100人余りが、この戦いで散華された。ビルマ北部カチン州の惜敗の地。戦後、慰霊の為にこの地を訪れる戦友や遺族が絶えることはない。

【原典写しは有力な歴史資料】

「彼らが、それを本物であると確認したんだ」

テキサス親父の愛称で親しまれる米国人トニー・マラーノさんがクリーンヒットを放った。D.C.の国立公文書館に問い合わせ、慰安婦に関する貴重な米軍資料を獲得したのだ。
▼文書を受け取ったテキサス親父
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20年間に及ぶ慰安婦騒動で、度々引用されてきた「米軍による尋問調書」。ミートキーナ陥落後、市街地に入った米軍が慰安婦らを拘束し、給与形態から日常生活まで聞き取りしたリポートである。

「複数のバージョンがあるこの書類を見て、それが本物なのか疑問になるよな?」

テキサス親父は、半信半疑だったと正直に言う。確かに、この米軍調書は元を辿ると、スペイン語と思われる「Exordio」という戦史資料の紹介サイトに行き着く。ウィキペディアのソースも同じだ。

参照:Exordio.com『UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION』

一字一句正しいのか、どうか判断できない。そこで、テキサス親父は米国立公文書館に照会して原典のコピー入手に成功したのだ。文書には、しっかりと「SECRET」の印も捺されていた。
▼「報告書No49」1枚目のファイル
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リポートを作成したのは、米軍戦時情報局心理作戦チーム。尋問場所は、インド・アッサム州の国境の町レドで、調査期間は昭和19年8月20日から半月余りであった。レドはインパールの遥か北に位置する。

「この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミートキーナ陥落後の掃討作戦で捕らえられた朝鮮人“慰安ガールズ”20人と日本の民間人2人に対する尋問から得た情報に基づくものである」

心理作戦チームは、敵の戦意を喪失させるビラの制作などプロパガンダを担当する組織だ。事実を捩じ曲げ、敵に有利な情報は隠蔽する。だが、このリポートは“我が軍の酷さ”を強調する内容ではなかった。



「思い出してくれよ!戦争中の真っ只中だ。米軍は『彼女たちは売春を強要されてた』とも言えたはずだが、違った。言えなかったんだ。それがウソになるからね」

テキサス親父は、そう指摘する。重要な点である。米軍によるマイナスのフィルターを通しても、反日ファシストが言い張る「レイプ・センターの性奴隷」は、大金を稼ぐ売春婦に過ぎなかったのだ。

【ピクニックを楽しむ性奴隷】

「これは慰安ガールが普通の月で総額1,500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する」

米軍調書は、総売上から店の受け取り分を差し引き、慰安婦の月給を算出している。当時の我が軍兵士の平均月給は20円。兵員の6年分の給金を慰安婦は1ヵ月で稼いでいたのだ。圧倒的な高給取りである。

「お金はたっぷり貰っていたので、彼女たちの 暮らし向きは良かった。彼女たちは、故郷から慰問袋が届いた兵士がくれる様々なプレゼントに加え、衣類・靴・紙巻きタバコ・化粧品を買うことが出来た」
▼「報告書No49」2枚目ファイル
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内閣総理大臣の倍の月給を誇り、化粧をしてタバコをふかしていた。そんな待遇の店舗スタッフを米国で「奴隷」と呼ぶのなら、それでも良いだろう。ただし南北戦争に遡って歴史を修正する必要がある。

「彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、またピクニック・演奏会・夕食会に出席した」

いい日和にはピクニックに出掛け、ディナーにも招かれる性奴隷…米パリセイズパークの偽ビッチ碑は、酷い矛盾を孕んでいるのだ。果たして、南鮮人団体を信用するか、自国の公的資料を信用するのか?
▼NJ州パリセイズパークのビッチ碑(共同)
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同時に、慰安婦が当時一般的な売春婦と違う存在であることも浮き彫りになる。繰り返し指摘してきたように、慰安所とはレクリエーション施設だったのだ。今も続く米軍のR&Rと同じである。

「彼女たちは蓄音機を持っていたし、都会では買い物に出かけることが許された」

当時最先端のオーディオ機器を個人で所有し、ショッピングに街へ繰り出す女性。南北戦争当時の奴隷女性も、多くが同じような20代ライフを満喫していたのであれば、納得しよう。
▼河を渡る実在の慰安婦(file)
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「結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった」

米軍心理作戦チームが慰安婦から直接採取した貴重なデータだ。グッドエンド・ルートに進んだ同僚の慰安婦も多く、捕虜となった20人の女性たちも結婚フラグが立ちまくっていたのである。

そんな境遇は、決して珍しいケースではなかった。同時に、彼女たちは世界で最も有名な実在の慰安婦なのだ。

【慰安婦20人の記念撮影】

ニセ慰安婦ショーの巡業公演にもステージ参加する嘘吐き教授・吉見義明。英訳までされた悪書『Comfort Women』の表紙を飾るのが、ミートキーナの朝鮮人慰安婦20人なのである。
▼吉見義明の捏造本(英訳版)
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この写真は、尋問が行なわれたインド・アッサム州ではなく、ミートキーナで昭和19年8月14日に撮影されたものだ。水上少将の壮絶な自決から10日が経っていた。

カチン州の山奥の激戦地から生還した女性とは思えない身綺麗な装いである。南鮮の反日ファシストどもは、慰安婦が一様に虐待を受け半死半生だったと言い張るが、吉見本の表紙がその嘘を暴いてるのだ。
▼ミートキーナの慰安婦と米兵(後掲書より)
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米軍戦時情報局(OWI)は、尋問調書の作成と同時に証拠写真の撮影にも励んでいた。しかし、この慰安婦写真が公になったのは情報開示に基づくものではなかった。
▼『BURMA : Untold Story』
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作戦に参加したチャン・ウォンロイというOWI将校が、1986年にミートキーナ攻防戦の記録『BURMA : Untold Story』を米国で出版。そこに一部の写真が掲載されたのだ。
▼ミートキーナの慰安婦20人(前掲書より)
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全体写真の左端がチャンで、他は日系2世の米軍人だとキャプションに記される。チャンは著書で、慰安婦について余り触れていないが、もう一枚の慰安婦写真を採用、掲載した。
▼the first "comfort girl"(前掲書)
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著書では「最初の慰安ガール」と名付けられている。撮影日は8月3日。ミートキーナ市街地に侵攻した米軍は一帯を制圧。そこで、キムという慰安婦に出会った模様だ。イキナリの急展開である。

このキム嬢は慰安婦ではなく、朝鮮人看護婦と見る研究もあるが、スマイルが印象的で、やはり捏造派の言う“傷だらけの性奴隷”とは全く違う。これが米軍に残る慰安婦の稀少写真だ。
▼3枚目ファイルには料金プランも
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この写真を含め、米軍心理チームのリポートは秦郁彦氏ら研究者が「慰安婦が売春婦である」証拠として提示してきた。だが、捏造派は信憑性が低い&特殊なケースとして認めていない。

確かに、ミートキーナの慰安所は特別で他とは違った…

【封印の解かれた禁断ファイル】

「日本国軍だけじゃなく色んな軍で慰安婦制度っていうものを活用してた訳なんです。そりゃそうですよ。あれだけ銃弾が雨嵐のごとく飛び交う中で命かけてそこを走っていく時にね(略)」

七転八倒の大騒動に発展した今年5月の橋下発言である。この認識不足に西村議員や中山議員が呆れ果てるのは当然だ。橋下市長の戦史理解は、いかにも日教組的だった。
▼波紋広げた5月13日の橋下会見
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慰安所は満州に多かった他、揚子江デルタに点在していた。戦場ではなかったのである。中支が激戦地だったとうのは、中共の戦後プロパガンダで、我が軍が保護下に置いた都市で「銃弾の雨嵐」などない。

だが、ミートキーナの慰安所は違った。激烈な攻防戦の渦中に置かれ、米軍機の空爆を受けて、スタッフが死亡する事態にも直面した。数ある慰安所の中で最も劣悪で悲惨な環境にあったのだ。
▼ミートキーナ侵攻作戦の敵軍兵
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テキサス親父が写しをゲットした米軍調書に登場する慰安婦とは「最悪の慰安所」の従業員たちだったのである。そんな彼女たちはピクニックを楽しみ、ディナーに招かれ、演奏会で調べに酔った…

捏造派は「使い古しの米軍資料」と引きつり顔で言うだろう。しかし、実はテキサス親父の大スクープなのだ。映像と一緒に公開された添付ファイルの7枚目に注目。これが本邦初公開なのである。
▼禁断の7枚目ファイル
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尋問調査リポートの「付録A」だ。この1枚に関して、以前から複数のサイトが和訳転載しているが、慰安婦の名前は全てイニシャルだったのだ。それが今回初めてフルネームを確認できた。

快挙である。これで出身地・年齢・朝鮮名と顔写真の4点セットが完璧に揃ったのだ。しかも尋問を受けた20人は捕虜として移送され、英米軍が虐殺しない限り、後に半島に戻ったと見られる。
▼議論終了を宣言するテキサス親父
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まさに生き証人だ。南鮮政府も反日陣営も、自称慰安婦を引っ張り出す前に、この20人の消息を追って安否を確認し、可能であれば親族を含めて聞き取り調査を行なう必要がある。

繰り返すが、実名と出身地に加え、顔写真まで残っているのだ。政府機関なら難しい作業ではない。それとも生存を確認次第、口封じを試みるか…実際、南鮮にとって本物の慰安婦の証言は邪魔でしかない。
▼グレンデールのビッチ像建設現場(読売)
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LAのグレンデール市もパリセイズパークもマイク・ホンダもAP通信も、この米軍調書の信用度について評価を下さなければならない。実態に迫るのはどちらか…自称慰安婦の証言と調書の証言は、まったく相反している。

真実派にとって慰安婦20人の朝鮮名判明は、またとない反撃材料だ。テキサス親父は、いつもの調子で豪快に笑

2013年7月2日火曜日

ナエマ 6月の薔薇


ナエマ。
つる薔薇です。